丸尾の【在宅】千日回峰修行

 

起き抜けに仏壇へ般若心経と観音経、神棚へ祝詞奏上。寝起きの天井に映ったアイデアの実況放送をボイスレコーダーに入れたものを聞き返しながら遠く箱根連山や富士山が見え、まじかに丹沢連峰と大山が見える平塚の西北端、広大な田んぼの中の農道を電気アシスト自転車でゆっくりと散策、帰宅してすぐ筆ペンで閃いたことを書きなぐり必要に応じてホーム頁を修正。比叡山の千日回峰と違い誰からも気にされない誠に自由な千日回峰修行です。

 

 

毎夜ごみ焼却場の余熱を利用したリフレッシュプラザ平塚のプールで全身脱力して優雅に三途の川を渡るイメージトレーニング。

 

 

食事は外食なしで基本は沢山の材料を掻き混ぜた配合飼料を手造り。

朝は前立腺癌の治療薬を飲む前に温泉卵とモズクと小分けした納豆、癌の治療薬など薬を飲んだ後は長女差し入れの摺りおろしニンニク入りオリーブオイルを一口。生の人参と玉ねぎと生姜をジューサーにかけたドリンクの配合飼料を冷蔵庫に入れて置いてトイレに行った都度一口。平塚の田園地帯の牛や豚と友達になった気分。妻が逝ってからはピタッと断酒。

  

平塚市高齢福祉課の方が丸尾宅へ栄養指導にお見え下さって、後日電話があり見せられたお手元資料で理想のグラフにこんなにぴったりと重なった経験は初めてと感嘆しておられました。

 

念願のP.P.C(ピンピンコロリ)を実現出来そうです。水泳は88歳を過ぎても続けております。

 

尊厳死の書類も登記しました。

 

 

 

同じオジヤで飽きませんか?と聞かれますが。 昔、田舎へ避難した時に中学、高校とトロッコ押しの今で言うアルバイトや払下げ荒れ地を一反部 鍬とスコップだけで開墾して芋を植えて芋ばかり食べておりました。胸がやけても皮を一緒に食べるといくらか治るのです。それでも家族のために買い出しに来る都会の人達から見たら恵まれておりました、ひ弱だった体も頑丈になりました。オジヤはあの頃を考えると飽きるなんて我儘は言えません、毎日が感謝です。

  

祖父が表参道に建てた 明治神宮講で歴代天皇の絵を見て育ち・・・

兵士を生きて父母の元に返すが口癖だったという金鵄勲章までもらった祖父が大陸の夜の雨と寒さで部下に死なれた辛さから退役後、鳥の羽を織り込んだ軽い毛布を創りました。ビニールがなかった時代です。待ちかねて軍が買い上げ その資金で財団法人明治神宮講という明治神宮参拝者用の啓蒙を兼ねた広大な宿舎を明治神宮表参道に創り夜は講堂で時の識者の講演を聞かせ早朝には揃って明治神宮への参拝を日課としておりました。

 


 

明治神宮講は関東大震災では避難所になり、B29の焼夷弾爆撃で焼失。祖父は遠州砂丘の砂防植物を大陸に植林。ズック靴をニカワで保護する人工皮革の実験などもしておりました。

 

ネットで丸尾重吉と検索すると明治天皇ご聖鑑著作者丸尾重吉と出て来ます。著書はお茶の水女子大学付属図書館にあります。

 

祖父は参拝の人達が日本の歴史を実感できるように馬堀法眼が描いた歴代天皇の絵を明治神宮講の屋内壁面に展示しました。A4版よりやや大きい 分厚い板に見事に描いてあり120枚あります。

 

絵は2部作り1部を明治神宮に奉納しました。明治神宮に問い合わせたところ爆撃の被災を免れて現在でも明治神宮ミュージアムにあるそうです。

 

宮内庁に聞いたところこの絵は公表しても構いませんとのご返事でした。

(ご意見やご提案がありましたらどうぞお寄せください。) 

 

この膨大な数の絵を爆撃を避けて祖父重吉の兄の宅へ預けてありました。長いこと預って頂いたことを感謝しながら、ホームページで令和の時代の皆様方にお見せ致します。

 

紫式部や女性天皇など日本の歴史の中で女性が活躍した様子をご覧になって女性の方は特に自信を持って頂きたいと思います。

 

この絵のように歴史を大切に引き継いで来たからこそ万葉集の昔から文字も大切に引き継がれこの文字のお陰で日本の子供達の知能指数も高く、閃き(直観力)も鋭いのだと言われます。 

 

あなたの口コミで生まれたお仲間が文字の連想でお互いの閃きを共有、特許レベルのアイデアを産み出すことは少子高齢化の日本を救い祖父重吉の願いにも沿うものだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

表参道に産まれた吉伸は神宮前国民学校から現御前崎市に避難、妻ちゑ子と出会って、小学校、中学校、池新田高等学校まで同学年でした。

 

吉伸はスポーツカー;フェアレディZを一つのラインで月産1万台製造する修羅場で、直観的に答えを授かる動画イメージ法を発見、体系化に半生を費しました。

 

妻は存命中は有限会社メイアイの代表を務めてくれて、吉伸は研究を特許の取得と言う形で証明して発明展で確認NHKにも出演しました。

 

  しかし勝手に考えた特許事例でなく生活体験から生み出すウオンツと呼ばれる本物のアイデアにステップアップしてウオンツプログラミング法で一億総活躍社会を実現してから死にたい。

 

少子高齢化の対策になるSNS時代の新しいコミュニティ七福人を日本中に造って社会現象にすることを79歳で逝った妻ちゑ子への手向けにしたいと思っております。

 

以前70才の古希祝で遠泳大会に参加茅ヶ崎烏帽子岩から岸までの1,5キロを妻が待つ海岸まで泳ぎました。遠州灘で覚えた浮かんで流れに任せる泳ぎでは横向きの海流が激しく苦労しました。 

 

平塚市がゴミの焼却場に余熱利用の温水運動施設を創ってくれました。早速 「三途の川をクロールで渡る。」と宣言。監視員の皆さんも呆れながら見守って下さいました。お腹が縦に割れてズボンがだぶだぶになり。ホームドクターはまのクリニックの浜野先生が毎朝飲む薬を5錠から2錠に減らして下さいました。